くんてきさん




1. 薫的和尚は寛永2年(西暦1625年)正月28日午前6時、四万十市にてお生まれになられた。御父上は、一条兼良の子孫、土佐国国主、一条兼定公の姻戚にして随臣、池田中納言、薫友卿(しげともきょう)。御母上は、四万十市住人、安松康兵衛の娘、於萬(おまん)と申し上げた。

 幼いころから、非常に聡明で、15歳で出家得度。22歳で香美市土佐山田町の豫岳寺住職。学問・詩歌・俳句・絵画・彫刻・武術に優れ、身長6尺(約180p)あったと云われる。
後に、洞ケ島、禅宗曹洞宗瑞應寺住職(第17世)になる。


出家得度した薫的さん(左)


豫岳寺住職を経て瑞應寺住職へ


2. 当時は、瑞應寺と真如寺という2つのお寺が力を持っていました。瑞應寺は長宗我部の菩提寺であり、当時の土佐藩一の大寺であった。真如寺は山内の菩提寺として、山内家入府後造営された。長宗我部と山内の対立はやがて、宗門にも反映するようになる。 真如寺の住職了谷和尚は 2代藩主山内忠義公の戒名を「竹巖院殿龍山雲公大居士」とつける。


了谷和尚の決めた山内忠義公の戒名


対立する薫的和尚(左)と、了谷和尚(右)

 これに対し、薫的和尚は、巌上の竹は枯死するが松はよく成育する故に松巌院でなければならない。 雲公の雲は、風によって乱れる意味を持つので不吉。 公は三公九郷の高官でなければ使用すべきでない。忠義は従四位侍従であるから公は僭上の嫌いがあると指摘。
 また、法事の際、瑞應寺の座列が真如寺の下座に置かれていることを抗議し、対立するようになる。


3. 瑞應寺脇寺、芳心院敬山(北川谷水)に訴状を渡し、宗門支配の周防の国長源寺に行く様託したが、芳心院は真如寺に内通してしまう。

真如寺から内通を受けた奉行孕石頼母ら藩の重役は関所違反という無実の罪をきせ、薫的和尚を投獄した。


無実の罪で投獄されてしまった薫的和尚


4. 獄にある事7年、苦節を守る。
経文の血書。日間自ら食を絶ち抗議。
寛文11年(西暦1671年)旧正月10日高知城を睨み付け、自ら舌を噛み切り憤死。享年47才。



5. 薫的様ご入寂後、3日3晩大豪雨があったと言われる。



6. 罪人となった薫的様のご遺体を、高知市小高坂山の住人、郷士西内半次正義が密に貰い受け、現高知市三の丸の私有地の畑に埋葬。光善芝と名付け、松を植え牛馬を繋ぐことを禁じた。 墓はいつしか忘れ去られる。

悪役人と芳心院の末路
役人、孕石頼母は、正徳4年(1714年)乱心し庭先を指して、「あの石の上に、緋の衣を着けた坊主が物凄い形相で睨み付ける。」と言って狂死。子・孫も次々に変死をして、血脈が絶える。

芳心院は、元禄8年(1695年)薫的和尚の命日より喉を痛め発病、不眠に悩み、発病後21日で発狂し死亡。長男、次男も変死。



度重なる不幸が役人の一族を襲う


7. 山内家重臣山内主馬様のご母堂光善院様の夢に薫的様が御出現され、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」というお告げをうけた。光善院様は、薫的様の祟りを大変恐れました。


光善院様の夢枕に現れた薫的様


8. 光善院様は家臣に命じ、薫的様のお墓を探し享保12年(1725年)に小高坂山から洞ケ島に御改葬。現在の薫的神社裏の霊光塔にお祀りされている。瑞應寺は明治3年廃仏棄釈により、廃寺となり、洞ケ島神社と称す。昭和24年に薫的神社に改称した。



9. 薫的神社は勝ち運の神、学問、スポーツ、の神様として、高知県全域に亘り、多くの信仰を集めている。



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